ふすま職人、にっしゃんのこと


谷元フスマの製造現場に携わる12人。
その中でも最年長の「にっしゃん」。頑固な職人のような風貌だが、とても優しく、冗談を言って同僚と笑いあう明るい人だ。


(子供向け動画への出演も快諾してくれた。)


ふすまとの出会い


にっしゃんは昭和22年生まれの72歳。漁師町である和歌山県田辺市で生まれ育った。
当時、田辺の学生は就職して大阪に出る人がほとんどだったそうだ。しかし、にっしゃんは皆が目指す大阪よりも、東京という土地に憧れた。
ひょんなことから、東京の会社で働かないかと声が掛かった。聞けば、田辺出身の社長が営む化粧品のコンパクトを作る会社らしい。田辺から東京に渡る機会は数年に一度しか巡ってこないため、自分が高校を卒業するタイミングで上京できるかはわからない。そう考えたにっしゃんは高校を辞めて憧れの東京に向かった。

東京での仕事にも慣れてきた頃、たまたま兄の友人がにっしゃんを訪ねてきた。
にっしゃんの兄は田辺で漁師をしている。訪ねてきた友人はマグロ漁船に乗っているそうだ。
「僕の兄が東京のふすま屋で働いているから、よければ見に来ないか。」との兄の友人の誘いに乗り、ふたり連れ立って東京にある工場を見に行った。
和ふすまの構造は、意外と複雑だ。障子のように格子状に組まれた桟(さん)があって、そこに紙を重ねて張り、縁(ふち)を付け、一枚のふすまになる。
職人がふすまを張る鮮やかな手つきを見たにっしゃんは直感した。

「これが自分のやりたい仕事や!」

すぐに働いていた会社を辞め、ふすま屋で働くことにした。



(ふすまを張るには全身を使った大きな動きと、繊細な指先の力加減が必要。)



にっしゃんは兄の友人の来訪をたまたまだと思っていたが、実のところ、東京でひとり頑張るにっしゃんを心配した兄が友人に頼み、ふすま屋の見学をさせてやるよう頼んだそうだ。どちらにせよ、ふすま職人という仕事との出会いがにっしゃんの人生の拠り所となったことは間違いない。

東京での生活は満足いくものだったが、数年後に体調を崩したにっしゃんは地元の田辺市に戻り、漁師として父や兄と共に働いた。

ふすま屋を辞め、漁師として働いてはいたけれど…


日々漁に出る中で、にっしゃんは漁師という職業は自分にとってとても厳しい仕事だと感じ始めていた。
網に魚が掛かるかどうかはその日漁にでないとわからない。魚がたくさん揚がる時はいいが、そうでない日もある。しかも海が荒れれば漁に出られない。

しばらくして結婚し子供にも恵まれたにっしゃんは、安定して家族を養える仕事に転職しようかと悩んでいた。にっしゃんにとって楽しくやりがいのあった、ふすま職人への復帰が何度も頭をよぎった。



(にっしゃんの手。職人の象徴だ。)



ふすま屋と一口にいっても、桟(骨組み)から作ることを売りにした業者や、骨組みは仕入れて新調・張替に注力する業者など様々だ。
漁師を辞め、地元のふすま屋で職人として復帰したにっしゃんは、材料を用い一からふすまを作り上げるという初めての経験をした。とても充実していた。

そんなある日、東京に住む義姉から突然の訃報が舞い込んできた。トレーラーの運転手をしていた義兄が、事故で亡くなったという。
血は繋がっていないものの、一緒に飲みに出かけたり、にっしゃんをとてもかわいがってっくれた人だ。最期くらい顔は見に行きたいと親方に相談した。しかし、返事は「行くな」の一点張り。
確かに少人数で運営しているふすま屋だ。一人休んだ穴を埋めなければいけない親方の心配もわかる。しかし、大切な人の最期を見届けることも許されないのか。

にっしゃんは苦渋の決断をし、東京へ向かった。

葬儀が終わり東京から帰ると、にっしゃんに向ける親方や同僚の表情が硬い。話ができない。
にっしゃんは仕方なくそのふすま屋を辞めた。

行きついた先は谷元フスマ


その後ふすま職人を中心に様々な職を経験し、離婚をきっかけに大阪へ。
その後再婚したにっしゃんは、義兄の仕事を手伝っていた。人生を共にするパートナーが再びできたにっしゃんは、やっぱりふすま屋に復帰したいと考えていた。38歳の時だった。

大阪でふすま屋を探していたにっしゃんが見つけたのは「谷元フスマ工飾株式会社」。
株式会社がついているふすま屋ならきっと大きい会社に違いない、とにっしゃんは考えた。

電話に出た当時の社長(初代、谷元富造)は「人材募集はしていないが、とりあえず一度会社に来るといい。」と言った。
実際に八尾市にある会社に行き社長に会うと、人情味のある気持ちのいい人だと感じた。
その出会い以降、にっしゃんは30年以上谷元フスマで働いている。ふすま職人として様々な場所で働いてはきたが、初代社長の一番弟子である山本さんに教わったことを、ベテランになった今でも大切にしている。「自分のやり方は谷元流だ」と語る様子はなんだか誇らしげだ。



(数ある工程の中で、受け紙を貼るのがいちばん難しいと話す)



取材依頼をしたとき、にっしゃんの作業台では、入社して間もない20代の若者が受け紙を貼る作業をしていた。
この春、谷元フスマには数人の若い社員が入社している。これから先を担っていく世代へ、伝統技術をどう伝えていくか。にっしゃんの指導は何気なく見えるが、教わる人の気持ちをしっかり考えている。
何度か張る姿を見せて教え、一度ふすまを張ってもらう。よいところは「うまいこといったやん。その感覚、覚えときや。」とほめる。うまくいかなかった時はアドバイスする。
「谷元のいいところは、社員同士がケンカをせず仲のいいところ。仕事をするとき、怒鳴ったりする人がいない。働きやすい環境だと思う。」

そんなにっしゃんがやりがいを感じるのは、いいものを作る時だそうだ。
「桑縁(くわぶち)なんて、めっちゃエエねん。見栄えがするし、硬くて長持ちもする。こんなエエ縁には、やっぱりエエ紙と引手を合わせたい。」
にっしゃんが働き盛りの頃は当たり前のように各家庭に和室があった。豪華なふすまの注文が来た時は、いつにも増して腕が鳴った。
昨今では和室の減少に伴い、ふすまやふすまの材料の価値を伝える人が減ってきている。そんな状況をにっしゃんは少し寂しく思っている。

「木のぬくもりや紙の風通しが感じられるから安心感がある。やっぱりふすまはいいもんや。」
ずっと人生の傍にあったふすまを、にっしゃんは大切に想っている。